整形外科医としての始まり― 手を使い、骨と向き合う世界へ
大分中村病院の診察室。その一角に、患者の「痛み」と真摯に向き合い続ける脊椎外科医がいる。田北医師は日々、一人ひとりの患者と向き合い、診察室で膝を突き合わせ、その身体の声に耳を澄ませながら、痛みの正体を探り続けている。

親戚に医師が多い家系に育った田北医師にとって、医療という仕事は特別遠い存在ではなかった。プラモデルを作るのが大好きだった少年時代、何気なくかけられた叔父の言葉は、今も胸に残る。
「お前は医者に向いているよ」。
大人になった今、あの時の「手を使って何かを作る楽しさ」が、整形外科医としての原点だったと笑う。そんな田北医師だが、高校時代は成績も振るわず、進路に悩んだ末、医学部を諦め一度法学部へ進学。しかし、その選択に違和感が残る。「入学式に行ったとき、心から喜べなかったんです」。

どうしても納得できなかった田北医師は、改めて医学の道を目指すことを決意。浪人中、手にした作家・渡辺淳一の小説『少女の死ぬ時』が、医師への想いをより一層深めた。「2人の医師が少女の開胸心臓マッサージをしており、手を止めればそのまま亡くなってしまう状況。とりとめのない会話をしながら、ベテラン医師の手だけは正確に心拍を刻んでいる、というシーンでプロフェッショナルのすごさを感じ、『やっぱり医者になりたい』と思いましたね」と当時を振り返る。
その後、医学部に入学し、自然に興味を持ったのは、中学・高校時代自身が続けてきたバスケットボールで身近に感じていた整形外科。学びを深めるうちに、整形外科の世界にどんどん惹き込まれていった。学生時代の手術実習で目にした光景は、今でも鮮烈だ。レントゲンをのぞき込みながら、 骨折した足に金具を打ち込む。「『入った!入った!』って、大の大人たちが手術室で声を上げて喜んでいるんですよ。それがなんだかすごく楽しそうに見えた」。

さらに思い出されたのは、かつて叔父からかけられたひと言だった。手先の器用さを見抜いていた叔父の言葉と実習が、ぴたりと結びついた。「自分は骨大工になるしかない!」と感じた瞬間であった。
手術を重ねても拭えない疑問、研究に没頭する日々、そして脊椎外科医へ
その後、大学病院に研修医として入局。朝から深夜まで、事務作業、採血、手術の助手など与えられた役割はすべて引き受け、休む間もなく現場に立ち続けた。過酷とも言える研修医時代だったが、数々の臨床経験を積み、整形外科医としての基礎を叩き込まれていった。
2年目以降は大分県立病院、熊本整形外科、鶴見病院をローテートし、臨床経験を積んだ。「とにかく手術をしたかった」という田北医師に任されたのは主に骨折治療などの手術。ひたむきに手術をこなす日々。しかし、いつしか心の奥に小さな疑問が芽生え始める。
「手術がうまくいっても、患者さんにとっては必ずしもそれが『うまくいった』とは限らないんですよね」。

手術の成否と患者の満足度、そこにはしばしば隔たりがあった。
さらに医局の体制では、1年ごとに病院が変わるローテーション勤務。執刀した患者の経過を自分で診ることはできず、「あの患者さん、その後どうなったんだろう」と思っても、知る術はなかった。そうした環境の中で、次第に「手術がすべてなのか?」とふと立ち止まり、自問する。技術を追い求めるだけでは満たされない何かが、田北医師の中で少しずつ形を成し始めていた。
そんな疑問を胸に「違う視点でいろんなものを見たい」と現場から少し離れ、大学院で関節リウマチや骨粗鬆症など骨の細胞の研究に没頭する。骨の細胞をコントロールする薬や治療法を学ぶ中、大学病院でまた新たな問題に直面する。

「脊椎外科のチーフを任されるのですが、来院するのはほぼ診断がついている状態の紹介患者さんばかり。難しい症例を数多く経験する一方で、ただ難しい手術をこなしていくという状況」。ここでもまた長期的に患者と向き合うことは少なかった。かつて芽生えた疑問の答えは、「初めて会った時から治療の最後まで、責任を持って患者さんと関わりたい」という想いだった。
自身の経験が大きな転機に。揺るぎない信念のもと痛みに向き合う
2010年、田北医師は脊椎外科医として大分中村病院への転職を決めた。「初診から手術、そしてリハビリまで、患者さんと長く向き合える場所でありたい」。そんな想いを胸に、新たな環境に身を移す準備を進めていたある日のこと、田北医師にとって大きな転機が訪れる。
朝、目覚めると、右手が上がらない。右足も力が入らない。念のため撮影した首と頭のMRI。その結果は、脳梗塞。すぐさま専門病院で緊急手術を受けることになった。
幸い手術は成功したが、待っていたのは長いリハビリ。その場所は、奇しくも新たな職場として入職を控えていた大分中村病院だった。「自分が患者さんの立場になってみて、いろんなことがわかりました。手術室に入るときの怖さ、術後の痛みのつらさ、思うように動かない腕のリハビリの大切さ。身をもって苦痛を知りました」。

自らの身体を通して知った「患者であること」。再び現場に立ち、患者と向き合う日々を送ることができるようになった田北医師は、今一人ひとりの訴えに全力で耳を傾ける。「僕自身、手が痺れる等傾向があったのに、自分の病気を診断できなかった。だから患者さんのひとつひとつの症状に真摯に対応したいと思っています」。
脊椎外科は、診断の難しさがつきまとう分野だという。患者が訴える痛みの原因が、画像だけで全て見抜けるわけではない。レントゲンやMRIを撮れば、加齢に伴う変化や異常がいくつも見つかる。
だが、本当に手術が必要な“悪い場所”はどこなのか―それを見極められなければ、高い技術を駆使しても痛みを取り除けないこともある。「診断が正確なら、手術は最小で済む。逆に、診断を間違えるとどれだけ立派な手術をしても痛みは残る。だからこそ、一番大切なのは“ちゃんと診る”こと」。

診察室では患者に触れ、動かし、立たせ、一緒に歩いてみる。どの動きで痛みが出るのかを一つひとつ確かめる。機械に頼るだけではなく、 “対話”と“観察”を重んじる。「一人ひとり時間をかけて診察するから、外来患者さんを待たせてしまうんですよね」と笑う。
最小の侵襲で、最大の治療効果をーそれは田北医師の医療の信念のひとつだ。そんな田北医師のもとには、長年通い続ける患者も多い。「自分の治療がどう役立ったのか、フィードバックをもらえる環境が、自分にとっては1番いいかなと思っています」。
骨折の連鎖を止めるために「骨粗鬆症リエゾンサービス」を開始
大分中村病院の整形外科には特徴がある。それは、骨折患者の多さ。ほとんど毎日骨折の患者が運ばれてきて手術を行うという。しかし手術を重ねても、骨が弱いままでは、再び骨折を繰り返してしまう。60代で転んで手首を折り、70代で背骨を折り、80代でさらに太もものつけ根を折る。そんな“骨折の連鎖”は現実に起きている。
「ならば骨折予防を考えよう」と、田北医師は看護師、理学療法士、作業療法士、薬剤師など、多職種から構成する「骨粗鬆症リエゾンサービス(※)」を立ち上げた。
これは医師だけでなく、様々な専門職がチームを組み、薬物療法や生活指導、運動指導など、患者一人ひとりに合わせたケアを提供し、骨粗鬆症の予防と治療、骨折防止に取り組む活動だ。
「ひとりひとりに最適な治療を続けていきたい。診断がつかない場合でも、諦めずに来てほしいです。わからないことがあっても一緒に考え、全力で向き合います」と語る。
今日も診察室の奥で田北医師は、患者と向き合い、痛みの正体を探し、未来の骨折を防ぐ方法を探している。

※骨粗鬆症リエゾンサービス
https://www.nakamura-hosp.or.jp/activity/ols/