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水上勉先生のご冥福を心よりお祈りいたします


 水上勉先生が本日午前お亡くなりになったとの報が、さきほど入りました。心よりご冥福をお祈りいたします。
 水上先生が「パラリンピックの世界を語る人はこの人を措いて考えられない」とオビに記していただいた私の著書「パラリンピックへの招待」(岩波書店)の中に、私は水上先生との出会いを以下のように記しています。

「作家の水上勉の二女である直子さんは、先天性二分脊椎のため下肢に障害があり、車いすを使っていた。直子さんが四歳の時に父は直子さんの股関節の手術をした。父が作製した赤い歩行靴をつけての訓練の後、松葉杖で歩けるようになった「直ちゃん」に「太郎お兄ちゃん」と呼ばれながら、私たちは一緒に幼稚園へ通園した。そして弟や妹も加わっていつも一緒に遊んでいた。」

「もう一人は、この本のオビを二つ返事で引き受けてくれた水上勉氏である。私が障害者に関する仕事をするようになったのも、氏やご家族との幼い日からの家族ぐるみの交流があればこそだと思う。心より感謝申し上げる」

 1984年に父がこの世を去った後は、葬儀はもちろんのこと、三回忌、七回忌、十三回忌と全ての法事にご夫婦で参加してくださいました。その頃は私も水上先生が相当に高名であることは存じ上げていましたが、幼い頃のお付き合いと何ら変ることなく、大好きなタバコをくゆらせながら話してくれました。
 最後にお会いしたのは2年前の冬、水上先生の親鸞賞受賞記念会でした。このときはご病気のために言葉も話せず。奥様の「太郎君が来てくれたわよ」の声にうなずかれ、握手を交わしたのが最後になりました。
 父が1965年に創設した「太陽の家」も、水上先生の献身的なサポートがあったからこそ誕生し、発展していきました。そもそも父は「別府リハビリテーションセンター」といった名前を考えていたそうですが「太陽の家」と名づけたのは水上先生です。数年前に○○ハウスといった利権丸出しの事件がありましたが、水上先生がハウスでもホームでもなく「家」とつけたのはどうしてでしょうか?ご本人に確認したわけではありませんが私は「家族」ではないかと推測しています。
 あさってより出発するアテネでは、障害者福祉の創世記にかけがえのないお仕事をされた水上先生の想いを胸に、障害を持ったアスリートのためにベストを尽くしてきたいと思います。どうぞ安らかにお眠りください。
(院長 中村太郎)
2004年09月08日(水) No.178 (院長コラム)

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